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アスリートからの伝言

常にプラス1のことをする

自他共に認める才能に恵まれた小学生の頃を天才時代とするなら、中学時代は体が細く、パワーで負けてしまうダメ時代だったと当時を振り返る。地元の高校に進学し、今まで以上に練習に打ち込む日々を送った。「高校に入って変わりましたね、きっかけは、1年生のときに出場したインターハイです。自分は勝てなかったのですが、準決勝、決勝と試合が進むうちに、どんどん熱気に包まれていく会場の雰囲気に圧倒されました。まさに青春って感じで(笑)。それで自分もこんなところで試合がしたいなと強く思ったんです。それから自分の弱いところを分析して、それを克服するための練習メニューを自発的に考えたり、スマッシュを20本打つ練習だったら、それより5本多く打つようにしたり、常に"プラス1"のことをするようにしていました」努力の成果は、翌年の全国高校選抜大会で現れる。シングルス3位入賞、チームも2位へと導き、全国にその名が知られるようになった。

筑波大学を卒業後、日本ユニシスに入社。坂本修一選手とペアを組み、全日本総合選手権大会優勝、世界選手権で日本人初の銅メダル、全英オープンで日本男子21年ぶりとなる銅メダルを獲得など、ダブルス界のトップ選手へと躍進する。そして夢の舞台、北京オリンピックに日本代表として出場が決まった。「北京オリンピックのコートに立つというのは特別な瞬間でした。よし、ここから始まるぞ。いざ、勝負だ!という気持ちで試合に臨みましたが、今振り返るとメンタル面がまだまだ弱かったんですね。あっという間に終わったんですよ、試合が。世界選手権でメダルを獲ったときのマレーシアの強豪ペアが相手で、彼らも国の大きな期待を背負って緊張してるだろうなと思っていたのですが、いざ試合が始まると、こっちもすごく緊張していて(笑)。1ゲーム目でどんどん相手にリードされて、坂本選手とも「ここからいきましょ」と声を掛け合うのですが、心と体がバラバラになって自分たちのパフォーマンスができませんでした。やっぱりオリンピックは別物だなと感じましたね」

オリンピック選手が感じるプレッシャーもまた想像以上のものだった。「出場が決まってから、信じられないくらい多くの人からの応援を受けるんです。そうした期待をいつの間にか背負っちゃうんですね。だからこそ、試合に集中できるメンタルの強さがいかに大切か改めて思い知らされました」メダルを期待されて出場した北京で思うような結果が出せず、努力して積み上げてきた自信や誇りも、すべて無になってしまったと感じるほどの喪失感に苛まれた。「オリンピックの舞台に立てただけでも嬉しい、というのは言い訳ですよね。そこで自分を評価してあげないとどこに喜びを感じていいのかわからないというか。やっぱり出るだけでは納得がいかなかったですね。北京オリンピックが終わったら働きたいと思っていたのに、いざ終わってみるとバドミントンへの気持ちが強くなる一方でした」それから所属先の日本ユニシスと日本で初となるプロ契約を結び、潮田玲子選手との混合ダブルスで2度目のオリンピックを目指すことを決意する。

「イケシオ」の愛称で多くのファンに親しまれながら、見事にロンドンオリンピックへの出場権を手に入れる。「ロンドンでは、結構落ち着いて臨めたと思います。二人とも集中できていました。試合で心がけていたのはベストを尽くすことと、平常心ですね。崩れてもすぐに追いつけるような気持ちの強さを持つことを常に意識していました」そのためのコツは、練習をして自信をつけること、そして自分はこれだけやってきたんだから、いつもどおりにやれば大丈夫と自分に言い聞かせることだと教えてくれた。

2度のオリンピック出場で得たものは?という質問にこう答える。「オリンピック出場を目標に掲げ、実現することができたことは素直に評価したいなと思います。納得のいく結果は出せませんでしたが、その過程で何度もつらい経験もしたし、もうダメだと思うところから自分を奮い立たせて努力もしてきました。多くの人に支えられながら、少しずつ成長してこられたことが一番の収穫だと思います。あとは、最近、人前で講演することが多くなりましたが、オリンピックの緊張に比べたらなんとかなる、と思えることですね(笑)」

池田さんの足跡には「日本人初」という言葉がいくつも並ぶ。日本人初のプロ契約もそのひとつだ。引退後も正社員として働ける契約からあえて退路を断ってプロの道を選ぶことに怖さはなかったのか?と聞くと「怖さよりも誰もやれなかったことを最初にできるという好奇心の方が大きかったですね(笑)」と明るく笑い飛ばす。実際にはプロ契約が満了してから大変な時期も経験した。「自分でスポンサーを捜して企業をいくつもまわったり、当時の大変さを語ると2時間くらいかかりますよ(笑)。落ち込むこともありましたが、後悔はまったくありません。僕は大学卒業時に一度バドミントンの道を諦めかけていました。運命的なことが重なって、日本ユニシスに入社できたというのが選手人生の始まりなんです。だからこそ、残りの競技人生は全力で努力しようと心に決めてやってきました。フリーというポジションを選んだときも、光栄にもやりたいと思えばできるようなポジションにいられたということが大きいです。自分でやりたいことができるチャンスがあるのに、やらないという選択肢はないと。すべてやり尽くして引退できれば最高じゃないかって(笑)」

常にフロントランナーとして新たな道を切り拓いてきた。すべてをやりきったといえる幸せな選手生活を終えた今、バドミントンから得たこと、子どもたちへ伝えたいことを聞いた。「バドミントンという勝ち負けの分かりやすい世界で生きてきたからこそ、勝つためにはどうしたらいいのか、目標にどうしたらたどり着けるのか、ということを自分で考えて努力することの大切さを学んできました。子どもたちから、強くなるにはどうしたらいいですか?という質問があったら、まずは本当に強くなりたいか考えることがスタートだよと言いたいです。本当に強くなりたくて努力をしていれば、もっと具体的な質問が出てくるはずだから。何をするにも目標を設定して、そのためには何をやらなくてはいけないかを考えることが大切。例えば、2020年の東京オリンピックに出たいなら、何歳のときにどんなタイトルを獲得しなくてはとか。ただ漠然と出たいなと思うだけでは目標にはたどり着けません。ぼんやりじゃダメだよって伝えたいですね(笑)」

元バドンミントン選手池田 信太郎(いけだ・しんたろう)

1980年12月27日、福岡県生まれ。

2007年クアラルンプールで開催された世界選手権の男子ダブルスで、坂本修一選手とともに日本人男子として初のメダルを獲得。2008年、同ペアで北京五輪に出場を果たす。2009年日本ユニシス株式会社とプロ契約を結び日本人初のプロ選手として活動を開始、2012年潮田玲子選手とペアを組み、混合ダブルスでロンドン五輪に出場。「イケシオ」の愛称で親しまれる。2013年からフリーとしてアルベン・ユリアント・チャンドラ(インドネシア)選手、株式会社エボラブルアジア所属アスリートとしてロバート・ブレア(スコットランド)選手とペアを組んで国際大会に出場。2015年、BWF(世界バドミントン連盟)アスリートコミッションに日本人として初の立候補、トップ当選を果たす。2015年9月現役引退。現在、BWFアスリートコミッション、日本リーグアンバサダーとして活躍中。